幕末の安政2年(1855年)、佐倉藩は藩政改革の一環として、藩士やその子弟を「士分の農兵」として組織し、未開墾地へ入植させて新田開発に着手しました。現在の上高野地域への農兵入植は文久2年(1862年)ごろに始まったとされますが、痩せ荒れた土地の開墾は困難を極め、農兵たちは苦しい生活を強いられました。この状況を憂えた佐倉藩の代官・今村省吾義則は、農兵たちの窮状を藩主・堀田正睦に訴え、さらに広い土地の払い下げに尽力しました。
これにより農兵たちの生活はようやく安定し、明治維新後も暮らし続けます。そして、この地は上高野から区別され、「上高野原」と呼ばれるようになりました。現在も残る今村稲荷神社は、農兵たちが今村省吾義則に感謝を込めて祀ったものです。